| 2.薔薇と三本のバオバオ |
![]() |
バラと三本のバオバブ
『星の王子さま』誕生にいたるサン=テグジュペリの自伝的背景と、
エル・サルバドール出身の妻コンスエロの文学的影響
安藤 二葉
第二次大戦末期1944年7月31日、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリはコルシカ島の米連合軍基地からグルノーブル・アヌシー方面の偵察飛行任務を受け、離陸した後、遂に帰還せず。作家はドイツ空軍機と交戦し、フランスの星となったとの英雄伝説が生まれた。
『星の王子さま』は永遠のベストセラーとして、今も世界中の人々に読み継がれている。作家が十字軍時代からの由緒あるフランス貴族の出身であったことから、彼が子ども時代を過ごしたサン・モーリス・ド・レマンの瀟洒な舘は『星の王子さま』誕生の聖地となり、事故で不時着した飛行士が王子さまと出会った砂漠の舞台には、地中海の玄関口となる元フランス領のチュニジアが、手ごろな写真撮影用現場として使われてきた。だが実際には、作家が処女作『南方郵便飛行』を書き下ろしたサハラ砂漠の駐在基地キャップ・ジュビーは、砂漠を遊牧するベルベル族の大地、西サハラにある。当時スペインの統治下にあったその地は現在、領有権を主張し植民地化を推し進めるモロッコと、サハラウィ共和国として独立を願うポルサリオ解放戦線[i] との紛争地帯である。
1929年、更に南へ、作家はダカールから大西洋を超え、南米アエロポスタル社支社長としてブエノス・アイレスへ赴任。自ら操縦桿を握りアンデス山系の高峰を夜間に飛行し、南米主要都市を結ぶ郵便宅配事業を展開した。飛行士の遭難事故が多発する中、彼は極限状態での人間性を追究する名作『夜間飛行』を書き上げ、39年刊行の『人間の土地』へと書き継ぐ。
遺作となった『城砦』は、専らニーチェの『ツァラルストラ』と比較され、冗漫な失敗作とされてきた。しかし、これをラテンアメリカ文学の視点から読み解き、ベルベル族の皇子と亡き父王とが交わす会話から、砂漠の帝国が描き出されて行く創世記として再編集し直されるならば、ガルシア・マルケスが『百年の孤独』で「マコンド」を作り上げて行く過程を彷彿させるような、摩訶不思議な魅力に富んだ作品に生まれ変わるはずだ。
『城砦』の「刊行者たちの覚え書[ii] 」には、「1936年、作家は『城砦』の原稿を『わたしはベルベル族の王であった。わたしは故国に戻って来た。そしていま、わたしの資産である数千頭の羊たちの剪毛に立ち会ったところだ。しかしこの羊たちは、彼らが群がる丘陵の斜面から星空に向かって、その祝福の音をまき散らすかの鈴をつけていない。……』と書き出していたが、ドリュー・ラ・ロッシェルとバンジャマン・クレミューにその書き出しを批判され、書き直してしまった」とのエピソードが記されいる。だが1944年、サン=テグジュペリの失踪と前後し、ユダヤ系のバンジャマン・クレミューはナチス強制収容所で死亡し、その翌年、対独協力者であったドリュー・ラ・ショッシェルはナチスの敗北に絶望し、レジスタンス運動家たちの報復を恐れ自殺した。戦後、『城砦』出版にあたり刊行者たちが記すエピソードが、事実であったか否かを立証する者はいない。
作家の死後に刊行者たちが編纂し刊行した『城砦』は、「思うにわたしは、憐憫が踏み迷うさまを目にしすぎてきたのだ。だが、われわれ民を治める者たちは、敬意に値する対象だけに心を配ることができるように、彼らの心根を探り知るすべを学んだのだ。……」と始まり、1936年の『城砦』の心躍らせる物語の書き出しを良しとする私には、納得が行かぬ思いがする。『城砦』の最後に作家は「今朝、私はバラの木を剪定した」と記しており、私は『城砦』が、羊の剪毛で始まり、バラの木の剪定で終わるベルベル族の創世記ではないかと考えている。
ブラジルのユダヤ系作家パウロ・コエーリョの『星の巡礼』と『アルケミスト』とは、『星の王子さま』と比較されてきたが、『城砦』からより多くの影響を受けているように思われる。
しかし、サン=テグジュペリと言えばまず、第二次大戦中に戦死したフランスの英雄としての面が取り上げられ、アフリカ西海岸と環大西洋、チリのサンティアゴからプンタレーナスにまで及ぶインターナショナルな飛行航路と、駐在地の多様性から、作家が極めてイベロ・アメリカ的要素を内包する作家であった点に着目、研究する論評が少ないのが残念だ。
西暦2000年、アントワーヌ・ド・サン=テグジュぺリ生誕百周年を記念し、何故か日本の箱根に「星の王子さま・記念ミュージアム」が創設された。
早速見学に行くと、ミュージアムの展示はメルヘンティックな星の王子さま・ワールドが長々と続き、作家のブエノス・アイレス時代が広がるのはギャラリー中ほどの1930年、アンデス山系に不時着した仲間の救出に、低空飛行を繰り返す命知らずの飛行士作家。その勇姿に胸躍らせていると、突然、結婚式の記念写真が現れた。
解説に、「1929年〜31年、サン=テグジュぺリはブエノス・アイレスで、中米エル・サルバドールのアルメニア出身の未亡人、コンスエロ・スンシンと出会います。未亡人だったコンスエロは移り気で気紛れだったが、すばらしい美人でユーモアに富み、文章も書けば絵や彫刻もたしなんだ。サン=テグジュぺリはブエノス・アイレスで彼女に会ったとたん一目惚れとなり、彼女を飛行機に同乗させ強引にプロポーズを迫った」とある。大柄な新郎サン=テグジュぺリの顔がほころび、その傍らに寄り添う小柄な女性は、『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラさながら、黒いヴェールの喪服の花嫁。何より、作家の妻がエル・サルバドールのアルメニア出身だったとは、私にとって驚くべき花嫁の出現だった。
私は昭和49年秋から51年末まで、青年海外協力隊員として中米エル・サルバドール共和国の国立芸術専門高校で版画を指導していた。既に四半世紀以上経ってしまったが、当時の版画工房の教え子の一人、フアン・カラシンと云う生徒が「僕はアルメニアのおぞましいコーヒー農園で生まれ育った」と、語っていたことを思い出す。私の帰国後、カラシンは工房主任となり、後輩に版画を教授する傍ら、自らも素晴らしい作品を制作していた。だがエル・サルバドールの社会状況が悪化の一途を辿る中、反政府運動に参加していた彼は、1981年3月、ミーティング(反政府集会)に行くと家を出たまま、行方不明(ミッシング)となった。学生や教職員のミッシングが頻発していた時代、彼も秘密警察に逮捕され惨殺されたのだろう。
時代の隔たりはあるが、同じアルメニア出身のコンスエロ・スンシンとフアン・カラシンと言う、奇妙に類似した二人の姓。中米亜熱帯のエル・サルバドールでも、特に蒸し暑いソンソナーテ州の田舎町に、何時、誰が、トルコとロシア国境地域のアララト山麓に先住したアルメニア民族に因んだ名前をつけたのだろう。カラシンが生きていれば何か教えてもらえただろうが、もはやたずねる術も無い。
その謎をミュージアムの解説に頼りたいところだが、作家の妻コンスエロについては、中米エル・サルバドール出身と言うだけで、彼女が如何なる経緯で中米を去り、未亡人となってアルゼンチンで作家と出会うに至ったのか、何の説明もなかった。仕方なく作家の足跡を追って行くと、1938年2月、2機目の自家用飛行機に乗りニューヨーク―プンタレーナス間の長距離耐久レースに挑戦したサン=テグジュペリが、中間点グアテマラで離陸に失敗、瀕死の状態でグアテマラ陸軍病院に担ぎ込まれたとあった。
事故の報せに駆けつけた妻コンスエロは、壊疽を起こした腕の切断を迫る医者と口論し、何とか夫を腕付きで退院させる。だが後遺症で腕が肩より上へは上がらなくなった作家は、先進国でのリハビリに望みをかけ、ニューヨークへ行くことにするが、グアテマラを発つにあたり、彼は妻コンスエロのアルメニアの家を訪れていた。
「コンスエロの父は初対面の義理の息子サン=テグジュぺリに、性能の良い車で丸一日走っても走りきれないほどの農園を進呈しようと、二人に滞在の延長を促した」
グアテマラから国境を越えソンソナーテ州へ入ると、前方にイサルコ火山が聳え立つ。嘗て私が何度となくバスで行き来した懐かしいルートを、サン=テグジュペリが辿っていたとは、驚くとともに誇らしい気持ちだった。私の脳裏に、中米で一番小さな国エル・サルバドールの山河が浮かび上がり、『星の王子さま』の挿画と次第に重なっていった。星の王子さまがコンロ代わりに鍋を掛けている火山は、当時ひっきりなしに噴煙を上げていたイサルコ火山ではないのか? コンスエロの故郷アルメニアは、イサルコ火山の裾野に位置しており、当時イサルコ火山は噴火を繰り返し、沿岸を航行する船乗りたちはイサルコ山頂の炎を「中米の灯台」と呼んでいた。おそらく意地悪なバラが咳をしていたのは、王子さまを困らせるためではなく、実際に幼少時代イサルコ火山の粉塵を浴びていたコンスエロには、喘息の持病があったのだろう。
小さな意地悪なバラとは対照的に、バオバブの大木はアフリカ原産で、中米には生息していない。だが1942年から43年にかけて、サン=テグジュぺリは『星の王子さま』の執筆に集中し、自ら挿画も手がけ、中でも小さな星を破壊しようとする3本のバオバブの絵を、1頁全面に大きく丹念に描き上げた。
作品が第二次大戦中に創作され、作家がアルジェへと出征する直前に刊行されたことから、作中の星を破壊する3本の巨木を、仏文学者の塚崎幹夫は「ドイツ、イタリア、日本の当時のファシズム国家を象徴したもの」と解説する。矢幡洋も著書『星の王子さまの心理学』で、「当時の政治状況からその解釈が自然である」[iii]と論じている。
3本の巨木に押しつぶされる小さな星。サン=テグジュペリは、「バオバブをかいた時は、ぐずぐずしてはいられないと、一生けんめいになっていた」と語る。だがその根元で、シャベルを片手に庭師はなす術も無く佇み、唯「気をつけるんだぞ!」と、他者に呼びかけるのみだ。そして何故か、その男の頭上に六角形のダビデの星が輝いている。
作者の妻がエル・サルバドール出身者と分かり、私も3本のバオバブが三国同盟を意味していると納得できた。1932年、つまり作家が中米のアルメニアの妻の故郷を訪れた6年前、エル・サルバドールでは、ナチスのヒットラーに心酔するエルナンデス・マルティネス将軍[iv] が大統領に就任し、その後12年間、 国民は血塗られた恐怖政治に苦しめられたのだ。
3本のバオバブの挿画を懸命に描く夫に、妻コンスエロが如何なる影響を及ぼしていたのか? 私はアルメニアのコーヒー農園主の娘だったコンスエロの、屈折する祖国への思いが知りたかった。
しかしミュージアムの展示は、作家の妻の故郷について何一つ説明することなく、ニューヨークに向かった作家の傍らからはコンスエロの姿も消え、代わりに米国の空の英雄、チャールズ・リンドバーグの大きな写真が展示されていた。
米仏の空の英雄二人が男の友情を結び合ったと、ミュージアムの解説は実に屈託がない。だが何故、1930年代末期ファシズムが台頭する時代、彼はリンドバーグと親交を結んだのか? 
当時、リンドバーグは一家でイギリスに数年滞在した後、ジョセフ・ケネディ駐英米国大使(J.F.ケネディ大統領の父) からドイツ空軍の視察を依頼され、2度ドイツを旅行している。彼はナチス空軍の卓越した防衛体制に魅了され、ゲーリングから最高勲章を授かった[v] 。ベルリン・オリンピックに招待され、妻アン・モロー共々ヒットラーに心酔してしまったリンドバーグは、帰国後、「親ナチ委員会」メンバーとなり、親ナチ活動を全米で展開していった。
二人の男の友情に潜む暗い影。だが一見学者の疑惑に答えることなく、展示は一挙に戦争の時代へと突き進む。
1939年9月3日、英仏は連合しドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が始まり、サン=テグジュペリはフランス空軍に入隊、偵察飛行任務を遂行するが、彼の眼下であっけなくマジノ線が破られ、パリはナチスに占領された。スペインから第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタン元帥が召喚され、南仏に親ナチのヴィシー政権が樹立する。サン=テグジュペリは退役し、妹ガブリエルの嫁ぎ先であるダ・ゲイ家の城にこもり、沈黙したまま『城砦』の執筆に専念した。
生涯、作家は反ド・ゴール、親ナチ政権ヴィシー寄りの立場を貫いた。ミュージアム側は、「平和主義者であったため、ド・ゴール将軍の対独レジスタンス運動により、フランス国土が内戦に巻き込まれることを避けようと考えた」と、作家の立場を擁護する。
嘗て私も学生時代に仏文科の授業で、「レジスタンス運動組織が主にプロレタリアートによって構成されていたことから、保守的なリヨンの貴族ド・サン=テグジュペリ家の作家は、第一次大戦の救国の英雄フィリップ・ペタンを信奉せざるを得なかった」と、聞いた覚えがあり、当時は素直にその見解を受け入れてしまった。だが現在、ラテンアメリカ問題に足を突っ込み、また「ゲルニカ」を描いたピカソを尊敬する私としては、ヴィシー政権のフィリップ・ペタンが「38年3月、フランコ施政下のスペインに大使として派遣された」[vi]ことを、容認する訳には行かない。
サン=テグジュペリのみならず、当時のフランス知識人の多くがペタン政権を容認してしまったのは、ナチス・ドイツから文化担当の任を受けフランスに派遣されていた、オットー・アベッツの友好的な文化政策が功を奏した結果とされるが、研究者カーティス・ケートも「1938年末、サン=テグジュペリのドイツ取材中、仏独関係《改善》の公職にあったオットー・アベッツに温かく迎えられた」[vii]と書いている。しかし、フランス全土が焦土と化すのを避け誕生した親ナチ・ヴィシー政権は、結局、なしくずし的にフランスのナチス・ドイツの傀儡となってしまった。
リヨンにはナチス親衛隊クラウス・バルビー[viii] が駐在し、1944年にリヨン市から80キロ離れたエン(Ain)村の施設イズー(Izieu)に収容されていたユダヤ系児童44名をアウシュヴィッツに強制送還し、焼殺した。また彼はレジスタンス運動家を次々と逮捕し、抵抗運動のリーダーであったジャン・ムーランを拷問にかけ虐殺している。
ナチス・ドイツ崩壊後には、バルビーの他にもアイヒマン、メンゲレ、多くのナチス将校が中南米へと逃げ、彼らの多くが逃亡先で1970年代の軍事独裁政権に雇われ、米国CIAとの密約の許で庇護された。彼らは現地の秘密警察顧問となって、自由を叫ぶ中南米の反体制側の人々に、コミュニスト、或いはテロリストの嫌疑をかけ、拉致し暗殺した。戒厳令(estado de sitio)下の首都でミッシングとなったフアン・カラシンも、その犠牲者だったと、私は考えざるを得ない。幸い1980年代に南米では軍事政権の多くが崩壊し、ボリビアでクラウス・アルトマンと名前を変えていたバルビーは、コチャバンバ市で逮捕され、1987年、バルビーはフランスに送還され、人道に対する17の犯罪について訴追された。だが中南米のドイツ系移民の中には、未だに「第3 帝国」への根強いノスタルジーがあり、民族主義的結束を固めている。

第二次大戦下、サン=テグジュペリがヴィシー寄りの立場を取る中、コンスエロは夫と別居していた。当時、二人の間には夫婦喧嘩が頻発し、別居が繰り返されていたとのことだが、ナチスを恐れ、スイス国境近くのジュラ山脈の山荘に隠れ住むユダヤ系の親友、レオン・ウェルトとその家族を慰問に行く時には、作家は必ずコンスエロを伴い、南仏からジュラへと出向いていた。ウェルト一家と集う写真の隅に写るコンスエロの笑顔は、私には戦禍の中でのささやかな人間の絆の証のように思われ、彼女の生き方についての興味が増していった。
1940年12月末日、親友ウェルトから「アメリカ合衆国の参戦なくして、英仏連合軍がナチスに勝利することは出来ない」と忠告された作家は、単身渡米する。しかし、米国参戦を願う作家の真意は、ニューヨークでセクトを組むヴィシー政権派のフランス人と結託し、ド・ゴール派を退け、米国とヴィシーのペタン政権とを連合させ、対ナチス戦を展開してゆくことだった。その構想は矛盾に満ち、作家の行動はド・ゴール将軍が主張するレジスタンス運動を支持する亡命フランス人たちの猛反発を招いた。
ド・ゴール派との論争に疲れ果て、精神的に行き詰まった作家が救いを求めたのは、ヴィシー政権の監視を逃れ南仏をさまよっていた、ボヘミアンのコンスエロだ。1942年の年明け、コンスエロはニューヨークの夫の許へ行く。
米国で、彼女は夫をニューヨークの喧騒から引き離すため、郊外の静かな邸宅を見つけ、夫を書斎に閉じ込める。『星の王子さま』は、その書斎で生まれた。だが妻との充実したその数年間を、ミュージアムは「比較的穏やかな夫婦生活」と、短く総括するのみだ。
1943年4月、米国で『星の王子さま』の英語版とフランス語版とがレイノル・ヒッチコック社から出版される。だが出版を祝う暇もなく、彼は米国に妻を残し、アルジェへと出征する。既に米国が参戦し、ナチス・ドイツ軍の形勢が不利になる中での、出遅れた戦線復帰だった。
箱根から戻り、私は久しぶりにフランス史を調べると、1943年、作家がアルジェへ発った直前の5月、ド・ゴール将軍もまた亡命先の英国からアルジェへと移動していた。
サン=テグジュペリは、ヴィシー政権と気脈を通ずるジロー将軍を、米連合軍と接触させようと画策する。だが彼の思惑とは裏腹に、ド・ゴール将軍はアルジェに到着するや迅速にジロー将軍一派を排除し、北アフリカでのフランス軍の統帥権を掌握していく。
ド・ゴール将軍指揮下の北アフリカで、作家はフランス空軍への復帰を阻まれ、アルジェとチュニスを転々とした後、何とか米連合軍情報部・地勢図作製室の飛行士として拾われた。サルディニア島の米軍基地に配属され、数回偵察飛行指令に出動した後、彼は部隊と共にコルシカ島へ移動し、1944年7月31日、9度目の偵察飛行[ix] 飛び立ち、遂に帰らぬ人となる。
度重なる事故の後遺症で、腕が肩より上に上がらぬ老飛行士を迎え入れた、米空軍部隊の思惑は不可解としか言いようがない。また、サン=テグジュペリの乗ったライトニング機が帰還せず、行方不明との報せに、フランス空軍内部では「彼はドイツへ逃げたのではないか?」との噂が囁かれた。にもかかわらず戦後、サン=テグジュペリは突如、アンドレ・マルローの如くフランスの英雄として祭り上げられる。
一方、作家と14年間連れ添った妻は、伝説化した作家の呪われた悪妻として、存在を消し去られる運命を歩んだ。単なる歴史の皮肉と片付ける訳には行かぬ、然るべく巧妙な裏工作があったと考えざるを得ない。
作家が米連合軍の飛行士となれたのは、1944年2月末、『ライフ』誌の若き写真家で以前からサン=テグジュペリを崇拝していた、ジャーナリストのジョン・フィリップスがアルジェを訪れ、作家の置かれた状況に深く同情し、米空軍に作家を売り込み奔走してくれたお陰だ、と言われている。ステイシー・シフもその経緯について、「ナポリの将校専用のバーで、作家はマクリー大佐と会う。フィリップスは自らがサン=テグジュペリになったように通訳を務めた。……マクリー大佐の側にも要求があった。みずから編纂していた本に、連合空軍について寄稿せよというのだ。サン=テグジュペリが同意したので――結局、宣伝から逃れるすべはなかった――マクリーはエイカーにこの会談の報告をした。『空軍にとっては大切な切り札です』……」そして遂に、「彼とフィリップスがB26で降り立ったサルディニア島北西海岸のアルゲーロでは、コルクの栓を抜く音が響いた」[x]と記している。
しかし、ステイシー・シフは、「(その前年1943年7月、サン=テグジュペリはチュニスから=筆者註)搭乗資格を取り戻してくれる人を探し……、戦略事務局長ドノバンを探してアルジェへ向かった」[xi] とし、更に「8月7日、最大の賞賛者の一人がアルジェに到着した。B夫人である。彼女はアメリカの飛行機でジブラルタルやって来て多くの人を驚かせた。……アメリカ国務省は、彼女(B夫人=筆者註)がヨーロッパ中を自由に動きまわれることにまたも驚き、対独協力の嫌疑を持ち続けた。そのために常に彼女とその恋人(サン=テグジュペリ=筆者註)を見張っていた……。到着の2日後、彼女はド・ゴールの専属幕僚長ガストン・パレウスキーと食事をし、『ド・ゴールに賛同しないのはまったくの間違いだと、サン=テグジュペリを説得して下さい』といわれた。……その後ひさしぶりに会った彼は髪がさらに薄くなり、物憂げで、側頭部には白いものが見えはじめていたが、それでも今までにまして威厳があった。パレウスキーのメッセージには肩をすくめただけだった」、そして「11月初旬までアルジェに滞在した後、B夫人はロンドンに戻った」[xii]と記している。
ステイシー・シフ著『サン=テグジュペリの生涯』の資料の多くは、このB夫人なるかなり高齢(おそらく現在は90歳を越える)の夫人のインタヴィーに負っている。B夫人は作家の妹ガブリエルの友人で、父親の代からの窯業を営む裕福な女性実業家、ネリー・ド・ボギュエ夫人だ。1935年以降、彼女は作家のパトロンとなり、愛人兼秘書役をも務め、経済観念が欠如した作家を物心両面から支えたとして賞賛されてきた。
戦後、ネリー・ド・ボギュエ夫人は作家の著作権の全てを掌握し、1945年11月、米国のレイナル・ヒッチコック社に無断で、フランス・ガリマール社からフランス語版『星の王子さま』を刊行する。そのため出版に際し、ガリマール社は挿画のオリジナルを米国の出版元から入手することができず、王子さまが剣を地面に突き当てた肖像画は、両肩に星飾りを付けた外套の表がブルー、裏地は赤、白ワイシャツという、フランス国旗の配色にリメイクされてしまった[xiii] 。作家の死後半世紀、我々はずっとそのガリマール版の3色旗の王子さまを見て、知らぬ間に飛行士作家サン=テグジュペリが、ナチス空軍機と雄々しく戦ったフランスの英雄だとのイメージを作り上げ、ネリー夫人の策略にはまってしまったのだ。
またネリー・ド・ボギュエ夫人はピエール・シュヴリエなる男性名で、やはりガリマール社から『サン=テグジュペリ伝』を刊行しているが、その伝記中、コンスエロについては「1930年:年末、バンジャマン・クレミューはサン=テグジュペリに、サン・サルバドール出身でジャーナリストのゴメス・カリーリョの未亡人、コンスエロ・スンシンを紹介。数週間後、彼女はフランスへ向かう。1931年:3月、彼はアゲイでコンスエロ・スンシンと結婚」と、実に短い記述[xiv] で、作家の妻を何ら実体の無い存在として封じ込めてしまった。しかもその2行あまりの中で、妻の出身をサン・サルバドールと記述するミスを犯し、国名と首都名とを取り違えた単純ミスが、現在まで訂正されることなく、サン=テグジュペリの最も正統的伝記とされてきた。カーティス・ケートも『空を耕すひと』の中でピエール・シュブリエのコメントを多用しているが、コンスエロの出身をサン・サルバドールとしており、ステイシー・シフはコンスエロの出身をエル・サルバドールとしているもの、グアテマラ人の前夫のゴメス・カリーリョまで「エルサルバドル新聞記者」[xv]と書いている。彼らの無神経さに私は呆れると共に、北半球の大国の人間たちの第3世界への蔑視の根深さを、あらためて痛感する思いだ。
更に彼女は、筆まめだった作家が世界中に書き送った膨大な手紙を集め、書簡集を編集し刊行するが、その書簡集中でも、作家からの自分宛の手紙を“X…宛”と、男性宛の手紙に書き直している。ネリー・ド・ボギュエ夫人は90歳を越えた現在も「ピエール・シュブリエ」のペンネームで、世界中からサン=テグジュペリのホームページに寄せられてくる様々な質問について、作家に成り代わり饒舌に回答し、作家の逸話を発信し続けると共に、作家の妻コンスエロ・ド・サン=テグジュペリ夫人についての中傷を繰り返している。
彼女は1940年には、恋愛小説『二度と帰らず』をガリマール社から出版しているが、そのペンネームはエレーヌ・フロマン。こうした彼女の匿名愛好癖は、ネリー・ド・ボギュエ夫人なる実名が研究者の間で知れ渡った現在も、一向に衰えを見せず、米国人編集者ステイシー・シフにネリー・ド・ボギュエなる実名を使用する許可を与えず、「B夫人」なる匿名を使わせる。だが、作家に同行し世界各地を飛び回った彼女は、実生活ではフランスの名門貴族ド・ボギュエ家の奥様で、一児の母である。彼女が執拗に匿名を使うのは、「裕福で敬虔なカトリック信者の貴族に嫁いだ」故に、名門貴族の家名を守るとの時代錯誤の理由によるようだ。
前述のケートによると、その名門貴族の夫ジャン・ド・ボギュエは、作家の高校時代の友人であり、作家にド・ゴール将軍の悪口を吹き込んだのが、このジャン・ド・ボギュエだったと言う[xvi]。フランス貴族たちの家庭生活と交友関係とは、実に複雑怪奇なところがある。中米の田舎町に生まれたコンスエロ・スンシンが、夫の属するフランス貴族社会から拒否され、彼女もまた彼らに背を向けてしまったのも、無理からぬことだ。
しかし、彼女の存在が作家の伝記から排除されてしまった裏には、私的な夫婦間の葛藤よりも、第二次大戦前後の不気味な歴史の闇が存在していたような気がする。
ステイシー・シフは著書の第13章で、「B夫人が1936年から40年にかけて作家が行ったスペイン内戦取材旅行に1回、ナチス・ドイツへの視察旅行には2度とも同行した」と記しているが、実際、1936年のスペイン内戦勃発の頃から、作家と妻コンスエロとの間で夫婦喧嘩と別居が繰り返され、B夫人と作家とが行動を共にする頻度が高くなる。しかし、その頃から作家の右傾化が顕著となってゆくように感ずるのは、私だけだろうか?
シフはまた、1938年3月末、グアテマラで大怪我を負った作家がニューヨークにやってくるのを待ち受けていたB夫人ことネリーは「リハビリ療養の通院に便利な場所として、作家のためにウィリアム・ドノバンの娘のアパートを借りた」[xvii]と書いているが、ケートもやはり当時のサン=テグジュペリとドノバンとの関係について、「第一次大戦でアルゴンヌの森の戦闘を経験しているウィリアム・ドノバン大佐と親交を結んだ……イースト・リヴァーを見下ろす 眺望の素晴らしい一室を彼に提供してくれたのである」[xviii]と記している。
それは作家がチャールズ・リンドバーグと知り合った時期と符合しており、米国で当時からリンドバーグが親ナチ委員会の活動を行っていたことを考え合わせると、その後の作家の行動に暗い影を投げかける。
リンドバーグとウィリアム・ドノバンとは、リンドバーグJr. の「誘拐事件」当時にコンタクト[xix] を取り始めたらしい。ジョイス・ミルトンの『リンドバーグ チャールズとアンの物語』には、「第二次大戦中、戦略事務局の首脳として活躍したウィリアム・ドノバンはクーリッジ政権の法務長官だったが、リンディー(リンドバーグの愛称=筆者注)二世誘拐事件当時は公職を離れており、事件とは公的な関係はなかった。しかし弁護士として調査の面からしばしばモーガン商会に協力してきたことと、組織犯罪に関する権威と見なされていたことから、事件が報道された三月二日の朝、彼のもとに下院議員のルース・ブラッド女史をはじめとして五、六人からリンディー二世を無事に取り戻すために尽力してほしいという電話がかかってきた[xx]」と記されており、当時、英雄リンドバーグを米国の広告塔として利用しようと、政治家たちが狙いをつけていたかが良く分かる。
英国滞在中にリンドバーグ一家を世話した駐英米国大使ケネディとドノバンとは、共にアイルランド系カトリック信者であり、リンドバーグの妻アンの父ドワイト・モローは、1927年にクーリッジ大統領からメキシコ大使に任命され、J・Pモーガン商会役員を辞し米国大使として親米的なオブレゴ政権下のメキシコに駐在していた。そして戦後、ドノバンは初代CIA長官となった。サン=テグジュペリもおそらく、リンドバーグ同様、ヴィシー政権から狙われ、ネリー・ド・ボギュエとのコンタクトを通じて、政争の深みに嵌まってしまったのではないか? 因みに戦後、リンドバーグは人間嫌いとなり、エコロジストとしてハワイで暮らし、1973年8月26日マウイ島の隠棲地でリンパ腺癌のため死去[xxi] 、享年71歳。

コンスエロ・スンシンに関しての情報収集がままならぬ内、年が明け2001年1月、エル・サルバドールで大地震が発生した。
私は日本赤十字社の支援活動モニターとして現地へ飛ぶこととなり、コンスエロについて調べたいとの願いが、奇妙な形で実現することとなった。もっとも現地では自分が陣頭指揮して被災者への仮設シェルターを建設することとなり、文学上の調査どころではなかったのだが、何とか任期終了間際の5月の日曜日、コンスエロの故郷アルメニア市を訪れることができた。そして幸運にも、その地でコンスエロを知るファン・デ・ディオス氏と巡り合い、遂にコンスエロ・スンシンの履歴を知るに至った。それは想像していた以上の、波乱万丈の人生だった。
コンスエロ・スンシンの生年は1901年。
アルメニア市役所の出生証明書No.123のコピーでは、スンシンの綴りはSUNZINとなっていた。スンジンとはアラブ的な響きのある名前だが、私の版画教室のファン・カラシンもカラジンであったのだろうか? アルメニアへ行くにあたり、私はカラシンの未亡人に祖先のルーツを問うたところ、「彼の祖父はフィリピンからの移民だった」との返事だった。フィリピンなる意外な出身地名に驚かされたが、1899年4月〜12月、フィリピンとキューバの占領権をめぐり、スペイン米国間で戦争が勃発した。勝利した米国は両国と共にカリブ海域を制覇する。またフィリピンを占領した米国人は、多重言語民族である彼らの語学力に注目し、カリフォルニアのメキシコ人労働者の監督として、多数のフィリピン人を米国カリフォルニアへ送り込んだ。一方、フィリピンの領土を失ったスペイン人農園主の多くは、本国に帰還したが、嘗て小作人を連れ新大陸の副王領から渡ってきた人々は、再び中南米へと舞い戻った[xxii]。
ディオス氏によると、コンスエロの母方のサンドバル家は、米西戦争以前に新大陸に渡ってきたスペインの名門貴族の末裔で、嘗て副王領の置かれていたグアテマラからソンソナーテ州にかけて広大な領地を所有していたとのことだ。一方父親フェリックス・スンシンは、軍属としてアルメニアに駐留する大佐だった。大農園主と軍人の結婚とは、エル・サルバドールでは余り歓迎されない結びつきだが、その風潮はスペイン植民地時代のフィリピンでも顕著であり、本来はペルーやメキシコから由来した[xxiii] ようだ。
箱根のミュージアムに展示されていたコンスエロのパスポートには、「身長168センチ」とあった。巨漢だったサン=テグジュペリの傍らでは小柄に見えるものの、彼女の背丈と東欧系の顔立ちから判断し、父方にインディオ系若しくはアジア系の血が流れているとは考えがたい、もっとも人種の坩堝であるフィリピンには、ブラジル同様いかなる体系や顔立ちの人間も存在するのだろうが。フィリピンがルーツと言う我が元生徒のファン・カラシンは、痩せていたが骨太で背が高く、インド人のような顔立ちだった。
何れにせよ、コンスエロの母方のサンドバル家は軍人との結婚に反対することなく、娘エルシリアに持参金としてアルメニアの農園を与え、広大な農園がスンシン大佐の手に入った。
コーヒー大農園の長女として何不自由なく育ったコンスエロは、やがて広い世界に憧れる文学少女に成長し、留学を決意する。
1917年、アルフォンソ・キニョーネス=メレンデス・モリーナ大統領[xxiv] の面談試験を受け、政府奨学金を得る。父親は病弱な娘の留学に一旦は反対するが、温暖なカリフォルニアの気候が娘の健康に良いと考え、サン・フランシスコの厳格なカトリック・ウルスラ会修道院に、娘を寄宿させることにした。しかしサン・フランシスコで、16歳の若く奔放なコンスエロが大人しく修道院の生活に耐えていたはずもない。留学中に彼女はメキシコ人のリカルド・カルデナスと出会い、瞬く間に恋に落ち、修道院を出奔するとアルメニアの親に内緒で結婚してしまう。
最初の夫となったリカルドは、パンチョ・ビーリャ率いる北師団の討伐の命を受け、カリフォルニアへ赴任したメキシコ軍少佐だ。パンチョ・ビーリャはマデーロ大統領が暗殺された後、メキシコ北部へ帰還し、革命運動を続けていたが、しばしば米国領内に乱入し、メキシコに利権を有す米国企業の施設を襲撃した[xxv] 。リカルド少佐はサン・フランシスコに駐留し、ビーリャ軍兵士を逮捕しメキシコ側へ送還する任務に従事していた。だがコンスエロと結婚し一年もしない内、任務中に列車事故に遭遇し、死亡。ビーリャのゲリラ隊により、列車に爆弾が仕掛けられた可能性もあると言う。
この最初のマッチョなメキシコ軍人との結婚生活は、どうもコンスエロの満足の行くものではなかったようだ。彼女は終生この結婚について、家族にも多くを語ることなかった。唯、ディオス氏には「リカルド・カルデナス少佐は、後のメキシコ大統領ラサロ・カルデナスの親戚だった」と、自慢していたと語る。ラサロ・カルデナス大統領は、1934〜40年、外国企業に握られていた石油や鉄道等の利権の国有化をはかり、メキシコ立憲革命国家の礎を築いた。またファシスト政権が台頭するヨーロッパから、多くの戦争孤児、難民、ユダヤ系亡命者をメキシコに受け入れた[xxvi] 。おそらくラサロ・カルデナス大統領の人道的偉業に感動したコンスエロは、最初の夫がカルデナス姓であるのにあやかり、後年ディオス氏に「親戚だった」と自慢したのだろう。
1920年、未亡人となったコンスエロは、何故か両親の待つ祖国には帰らず、亡夫の国、革命の動乱おさまらぬメキシコへと旅立ってゆく。
1920年は、『星の王子さま』の小惑星B-612を発見したトルコ人天文学者が、再度正装し万国会議に出席し、小惑星の発見を説明したところ、あっさりとその説が皆に承認された記念すべき年だ。トルコ人天文学者が望遠鏡で小惑星を発見したのは、その11年も前の1909年。13才のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリが幼年時代の立派なお屋敷を出て、一家で祖父が暮らすル・マンに移り住み、飛行機に初乗りした運命的な年だった。作家は自分たちが目指すべき世界を発見した年を、『星の王子さま』の中に明記していたのだ。
因みに、ユーラシア大陸の本家であるアルメニアの起源は、聖書の「ノアの方舟」がたどり着いたアララト山の裾野と言われる。サン=テグジュペリ自身は、信心深い人間ではなかったようだが、当時のファシズムの嵐がヨーロッパ社会を根底から覆す様を、彼は「ノアの方舟」にたとえていた。場所は異なるが、妻コンスエロの出身地がアルメニアと云う同じ地名を有する事から、作家に多大なインスピレーションを湧き立たせたのだろう。
当時、アルメニアはオスマン・トルコの支配下にあり、アルメニア人もトルコ人と見做され、トルコ人の装束[xxvii] を身にまとっていた。サン=テグジュペリが『星の王子さま』に登場させたトルコ人天文学者は、正確にはアルメニア系トルコ人と考えるべきなのだろう。
1921年、コンスエロはメキシコ自治大学の奨学金を得ると、当時の若者の間で人気のあったジャーナリズムを専攻する[xxviii]。大学の学長は著名な哲学者ホセ・バスコンセーロス[xxix] 。学長が教壇に立つ授業に出席したコンスエロは、師弟の段差を飛び越え、学長と激しい恋に陥っていく。だが当時、ホセ・バスコンセーロスは妻子ある身である上に、チリの女流詩人ガブリエラ・ミストラルとも恋愛関係にあった。
詩人のガブリエル・ミストラルは、第二次世界大戦中にはブラジルで平和運動家として活動し、戦後ノーベル文学賞を受賞したチリの国民的詩人だ。彼女の肖像は現在、チリの五千ペソ紙幣に印刷されている。知的で堂々たる風格の持ち主だが、美形とは言い難い。学長のコンスエロとミストラルとの二股かけた不倫は、二人の女性の対照的な容貌故に、当時の人々から揶揄され大いに皮肉られたらしい。だが彼は、「私はコンスエロの美貌ではなく、彼女の音楽的な詩的な会話に魅了された」と、コンスエロ・スンシンの知性を高く評価していた[xxx]。
1923年、ホセ・バスコンセーロスは大統領選挙に立候補するが、理論派の哲学者は選挙に敗れ、政敵の報復を恐れた彼は家族を伴い、フランスへ亡命して行く。
一人残されたコンスエロは帰国する。故郷アルメニアでは、幼馴染みの婚約者がコンスエロを待っていたが、広い世界を知った彼女には、中米の小さな田舎町での閉塞的な生活は耐えがたい。パリのホセ・バスコンセーロスへ恋文をしたため、その返事にパリへの片道切符が同封されてくると、彼女は再び故郷を出奔し、パリへ行く。
若いコンスエロと、不遇の時を過ごすバスコンセーロスとの、余りに激しい恋。やがて愛に疲れた初老の亡命哲学者は、学術上の仕事を理由に家族と共に南米へ旅立つ。一人傷心するコンスエロの許を、バスコンセーロスの友人であり、著名なグアテマラの文人、エンリケ・ゴメス・カリーリョ[xxxi] が頻繁に訪れるようになる。
コンスエロ26才、ゴメス・カリーリョ53才、父と娘ほどの年齢差だが、二人は結婚する。エンリケ・ゴメス・カリーリョは、現在では忘れられた文人となってしまったが、ロシア革命が勃発するや、直ぐにモスクワへ取材に飛び、革命を擁護した彼のルポは当時の人々に衝撃を与え、「スペインのピエール・ロティ」と称せられた。また若い頃には、「マタハリ」の恋人だったとも噂され、時として麻薬もたしなみ、所謂リベルタンとして奔放な人生を生きたボヘミアンだ。尚、彼は1905年に日本を訪れ、ルポ『ニッコウ』をスペインの「エル・リベラル」紙とアルゼンチンの「ラ・ナシオン」紙に掲載しているが、彼の日本紀行『誇り高く、優雅な国、日本 ―垣間見た明治日本の精神』は児嶋桂子訳で人文書院から2001年に刊行されてい。
自由奔放な二人の結婚は、限りなくアブノーマルで芸術的な魅惑に溢れていたことだろう。だがまたも僅か11ヵ月足らず、二人の結婚生活はゴメス・カリーリョの突然の死で終幕する。文学的に行き詰まった末の自殺だった、との噂もある。
幸い、彼は生前に全財産を新妻コンスエロに譲渡していた。現代ならば妻が殺人容疑をかけられるところだが、ゴメス・カリーリョ家からの訴え等は一切無く、コンスエロはすんなりとパリのアパルトマンと郊外の家、南仏のヴィラまで相続し、一躍金持ち未亡人となった。何より、生前の夫の名声とモーリス・メーテルリンク、サルバドール・ダリ等との交友関係を引き継いだことが、その後の彼女の人生にとって貴重な財産となった。
ゴメス・カリーリョはまた1900年初頭より、アルゼンチンに誕生した革新的なイポリート・イリゴージェン[xxxii] 政権を支援し続けていたことから、アルゼンチン政府は彼の死を悼むと共に、その功績を記念し、未亡人に年金の給付を申し出た。
そこでコンスエロは、亡夫の友人だったユダヤ系フランス人の文学評論家バンジャマン・クレミューと共に「マッシリア号」に乗船し、南米へ向かい、ブエノス・アイレスでクレミューから新進作家サン=テグジュペリを紹介される。無鉄砲な飛行士は彼女に一目惚れ、情熱的なプロポーズを繰り返す。激しい求愛に当惑した金持ち未亡人は、パリへ戻ると直ぐ、亡夫の親友だったモーリス・ メーテルリンクにこの新しい恋の悩みを相談する。
メーテルリンクはまだ作家の卵だったサン=テグジュペリの次なる作品『夜間飛行』の原稿を読み、コンスエロに「彼は将来フランスを代表する作家になるだろう」と、太鼓判をおした。そこで彼女はサン=テグジュペリとの結婚を決意する。モーリス・メーテルリンクの『青い鳥』も、子どもが擬人化した犬や猫と共に世界を彷徨った末、家へ戻り幸福を見出す物語だ。正にサン=テグジュペリはコンスエロと結婚することによって、『星の王子さま』を書くべく運命づけられていたと考えて良いだろう。
1931年、コンスエロは義妹ガブリエラ・ダゲイの城砦で、3度目の結婚式を挙げる。中米の小国のアルメニア村から花の都パリへと飛翔して行った、コンスエロのその飽くなき上昇志向に、私は脱帽せざるを得なかった。
最後にファン・デ・ディオス氏は、「エル・サルバドール文化庁がサン=テグジュペリ生誕百周年を記念し、コンスエロ・スンシンの小説『オペードのメモワール』[xxxiii] のスペイン語版を出版している」と、教えてくれた。ドイツ軍に占領されたパリを逃れ、一人南仏を彷徨っていた主人公ドロレスが、建築家ベルナールと出会い、二人で石の村オペードへたどり着き、その村に精神の自由を標榜する芸術コミュニティーを作り上げるようする、体験談的小説だ。またディオス氏は「最近フランスで、彼女が飛行士作家サン=テグジュペリと出会ってからの、14年に渡る結婚生活の思い出をつづった原稿が、半世紀ぶりにコンスエロの遺産相続人の手で公開され、『バラの回想』と題され出版された」と、付け加えた。
エル・サルバドールから帰国し、紀伊国屋書店で翻訳された『バラの回想』[xxxiv] を見つけた。彼女の回想録が出版されるや、「生身の人間としてサン=テグジュペリをよみがえらせた」と、フランスで大評判となっただけあり、書店の洋書コーナーには原書が積み上げられていた。しかし日本での売れ行きも、また本の評判も今一つ伸び悩んでいるようだ。
母校、立教大学の図書館を探してみると、ポール・ウェブスター著『Consuelo De Saint-Exupery (La rose du petit
prince)』の仏訳版[xxxv] を見つけることができた。英国人のポール・ウェブスターは1995年、南仏グラースを旅した時に、サン=テグジュペリ未亡人コンスエロの別荘跡を見つけ、コンスエロに興味を抱き、当時としては唯一コンスエロに関する好意的な論の『星の王子さまを探して』[xxxvi] を発表した文芸評論家だ。
その後、彼は『アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、星の王子さまの生と死』の執筆にあたり、ピエール・シュブリエの訪問を受けた。それまでは彼も「サン=テグジュペリに愛人が出現し、コンスエロは捨てられたのだろう」と考えていたが、実際のピエール・シュブリエが、極めて高齢だがエレガントな老婦人であったことに疑念を覚え、再度コンスエロについての調査を決意した[xxxvii] と言う。彼はエル・サルバドールへ行き、コンスエロの姪ミレイエ・ディマス等から詳細な現地情報を収集し、コンスエロ評伝として『Consuelo De Saint-Exupery La rose du petit prince(王子さまのバラ)』を刊行した。その著書には、コンスエロの両親の写真も掲載され、私はフェリックス・スンシンのアラブ的であると共にフィリピン的とも思われる、不思議な顔を拝むことができた。
西暦2000年、夫の生誕百周年と共にコンスエロは、バラとしてよみがえったのだ。
しかし彼女の『バラの回想』については、夫サン=テグジュペリとの15年間の思い出のみが強調され、コンスエロ・スンシンとしての人生の多くが、語られぬままとなってしまったのが残念だ。メキシコ人リカルド・カルデナスとの最初の結婚、ホセ・バスコンセーロスとの激しい愛、2番目の夫エンリケ・ゴメス・カリーリョと彼の友人たち、メーテルリンク、ダリ、アンドレ・ブルトン、バンジャマン・クレミュー等とのその後の交流について、コンスエロは何も語ろうとしない。
また1938年、王子さまの小惑星B-612のモデルである故郷アルメニアへの里帰りついても、彼女は『バラの回想』の18章「我が家」の中で、夫が「僕らは別れたんだ」と言って妻の故郷へは行かず、一人ニューヨークへ向かったと、回想している。この38年の二人のアルメニア行きについては、ニューヨークで作家を待っていたネリー・ド・ボギュエ夫人も認めており、ステイシー・シフはその顛末について、「夫のそばで2、3日すごすと、コンスエロはエル・サルバドールの家族に会いに行き、同月18日に退院した彼も10日間そこに滞在した。妻の親族と会ったのは、これが始めてだったようだ。コンスエロの記憶では、彼女の父親があたたかく迎えた。『ここに越していらっしゃい。性能のいい車で丸一日走っても走りきれないほどの農園をさしあげますよ。』『お義父さん、お義母さん、豆の栽培をおぼえるにはもう遅すぎます。私の仕事は雲をたがやすことですから。』彼は丁寧に断った[xxxviii]」と記している。
おそらくコンスエロの沈黙は、戦後のフランスで対独協力者(コラボ)狩りが横行する状況下、ヴィシー政権傘下にいたサン=テグジュペリが38年当時、枢軸国だったエル・サルバドールに行っていた事をド・ゴール派の人々に知られるのを危惧し、「夫がアルメニアの故郷には行かなかった」と書くことにしたのだろう。
また彼女自身にとっても、久方ぶりの故郷への里帰りが、全面的に喜ばしいものではなかった所為でもあろう。ポール・ウェブスターは、「コンスエロのみならず、二人の妹たちも母エルシリア・サンドバルについては饒舌だが、父親に関しては口を閉ざす[xxxix]」と、著書『王子さまのバラ』に記している。1932年に彼女の故郷ソンソナーテ州一帯で起きた悲劇、「大虐殺(Matanza)[xl]」が、スンシン家の娘たちの口を閉ざす原因となっているのだろう。
1931年12月アルメニア近郊のイサルコ村から「農民蜂起 rebelion」の火の手が全土に広がった。翌年、エルナンデス・マルティネス将軍率いる政府軍兵士が叛乱を鎮圧し、インディオ農民を子どもに至るまで見境無く殺戮し、3万人以上もの人々が虐殺されたと言われる。その「大虐殺」以降、エル・サルバドールのインディオは生き残りをはかるため、メスティーソ(スペイン人との混血児、民族の誇りを失った者)として、スペイン統治時代以前から守り抜いてきた自らのアイデンディティ:ナウワ・ピピル語族の伝統文化風習を全て捨て去った。その時からエル・サルバドールでは先住民文化が全て消え、再びよみがえることは無かった。
32年当時、軍人であったフェリックス・スンシン大佐が犯したであろう、数々の暴挙、先住民の抹殺について、スンシン家の女たちは驚愕の内に沈黙せざるを得なかったのだろう。
故郷アルメニアに里帰りしたコンスエロは、回想録の中で「私がいなくなってから、村では多くのことが起こっていた。女の子たちは成長し、母親になったり未亡人になったり、ある者は離婚し、裕福だった者は貧しく、貧しかった者は富み、古い市場はなくなり、木々は一斉に大きくなり、オレンジの木が通りを覆っていた……[xli]」と、ひたすら諸行無常を語るのみだ。村の過去を隠蔽してしまうと同時に、メキシコで学んだこと、リベルタンとして生きて死んでいった素晴らしい夫ゴメス・カリーリョから譲り受けた、反骨精神、自分自身を輝かせていた奔放な生き様をも、彼女は沈黙の中に沈めてしまったのだ。
この翌年、父フェリックス・スンシンは病死。男子がおらず、コンスエロの妹二人も他家へ嫁いだため、アルメニアにスンシン姓を名乗る者はいなくなる。義理の息子に広大な農園を進呈しようとしたコンスエロの父の言葉には、土地を守ろうとする農園主の切実なる思いがこめられていたのだ。しかしフランスの夫の許へ戻ったコンスエロは、父親の最後を看取りに帰国することもなく、また第二次大戦が始まり娘の身を案じる母エルシリアからの帰国を促す手紙にも応えることなく、戦後ずっと彼女は、南仏に暮らす義母マリー・ド・サン=テグジュペリの近くの村グラースで暮らし続けた。
アルメニアのディアスから頂いた新聞のコピー[xlii] には、「1960年代以降に何度かエル・サルバドールを訪れたが、1977年の帰郷が最後となり、1979年、南仏グラースの別荘で喘息発作により死亡。パリのペール・ラシェーズ墓地のゴメス・カリーリョの墓の傍らで、永遠の眠りに就く」と記されている。 尚、水原冬美『パリの墓地‐フランス文化の散歩道[xliii]』にはペール・ラシェーズ墓地についての情報が全て網羅されており、墓地の第89区画にあるサン=テグジュペリ夫人コンスエロの墓の写真が掲載されている。
しかしコンスエロは全てを沈黙の内に消し去った訳ではない。『バラの回想』第1章に、彼女は「マッシリア号の少女」なる副題をつけている。
1940年6月18日、英国に亡命したド・ゴール将軍が、BBC放送から全フランス国民に対独レジスタンスを呼びかけると、ジョルジュ・マンデル元内務大臣[xliv] とフランス議員団25名とがド・ゴール将軍に呼応し、北アフリカで対独闘争を開始すべくフランスを脱出し、アルジェへと向かう巡洋艦に乗り込んだ。「マッシリア号」はその巡洋艦の船名である。だがジョルジュ・マンデル元大臣と議員団の一行は、マッシリア号がアルジェに入港すると、ヴィシー派に寝返ったフランス部隊に全員逮捕され、フランスに送還された。ユダヤ系のジョルジュ・マンデルはナチス・ドイツに引き渡され、1944年に強制収容所で死亡する。
だが1930年、10年後の戦争の悲劇を予測だにせずゴメス・カリーリョ未亡人は、前夫の友人バンジャマン・クレミューと共にアルゼンチンへと、心躍らせ大西洋を渡って行く。この時に乗船した船の名が本当に「マッシリア号」であったか否かは、問題ではない。新しい人生、ド・サン=テグジュペリ夫人となるべく運命づけた船を、コンスエロは「マッシリア号」と名付けることで、戦時下に自分がヴィシー政権に組することなく、反骨の精神を守りぬいたと証明するために、1945年、彼女はこの『バラの回想』を書き出したのだろう。
彼女の回想には、クレミューの他にリカルド・ヴィニェス、マックス・エルンスト等が登場するが、彼らは皆ユダヤ系だ。「マッシリア号」に乗船し、彼女にサン=テグジュペリを引き合わせたバンジャマン・クレミューは、国際ペンクラブのフランス代表としてファシズムへの批判を声高に叫び続けたため、パリが占領された後、ジョルジュ・マンデル元大臣と同様ゲシュタポに拘束され、やはり1944年に強制収容所で死亡している。また、2000年2月、『バラの回想』の刊行にあたって、コンスエロへの賛辞を序文に記した文芸評論家アラン・ヴィルコンドレも、ユダヤ系である。
エル・サルバドールのコーヒー農園主の多くが、アラブ系かユダヤ系であり、またコロンブスの新大陸発見以降、新大陸へ渡ったスペイン人の中に多くのマラーノ、若しくはセファルディ[xlv] がいたことを考えると、コンスエロはこの回想の中で、母方のサンドバル家がユダヤ系であったことを仄めかそうとしているのではないか? と考えざるを得ない。しかし何故か彼女はその一方で、夫が『星の王子さま』を捧げた親友のレオン・ウェルトについて、回想録の何処にも彼の名を記そうとしない。
同様にレオン・ウェルトも、戦後、サン=テグジュペリとの友情について、質問を繰り返し受ける度に、「それは個人的な二人だけの問題だ」と多くを語ることは無かった。1948年、ウェルトはViviane Hamy社から『Saint- Exupery tel que je l’ai connnu…(私が知っているサン=テグジュペリは……)[xlvi] 』を、写真や作家のデッサンや手紙を添えて刊行してはいるが、内容的にはウェルトの友情論が記されていると言ってよい。作家とウェルトとの実質的な交流については、レオン・ウェルトの息子クロードの少年時代の思い出から、「二人は1931年か32年頃に出会った」とされ、コンスエロとの結婚後直ぐに二人が出会ったことになるが、カーティス・ケイトによると[xlvii] 「1935年、ドランジュの紹介で出会った」とされる。ウェルト[xlviii] は作家よりも22歳年上で、小説家、編集者、ジャーナリスト、芸術批評家という才人である。祖父がユダヤ教のラビであったが、彼は無神論者で無政府主義者、トロッキストでもあったことから、おそらくコンスエロの前夫ゴメス・カリーリョの友人、少なくとも知り合いであったはずが、その点についてウェルトもコンスエロも何も語っていない。
戦禍を逃れ、生き残ることができた二人だが、ホロコーストの悲劇の後では互いに語るべき言葉を見出すことが出来なかったのだろうか? 戦時下でユダヤ系フランス人が次々と強制収容所へ送られる中、如何に用心深く隠れ住んだにせよ、ウェルト一家が生き残れたのには、単なる幸運だけではなかったはずだ。コンスエロも『バラの回想』中、オペード村で食糧が底をついた時に、ポーで最後に夫と話し合った際に、「ドイツ人が収穫前に買った作物を列車の中に保管している」と語ったことを思い出し、コミュニティの仲間とアヴィニョンへ行き、「私は列車に乗り込んだ。豚を1頭見つけて、路線まで引きずり下ろした。歩哨がこちらを見たが、発砲してこなかった。どうしてだろう? [xlix]」と記しているが、戦時に兵站部の歩哨が食糧泥棒を見逃す奇妙さを考えると、サン=テグジュペリが一人フランスへ残った妻のために何らかの配慮をヴィシー側にしていたのではないかと、考えざるを得ない。
ウェルトもコンスエロもヴィシー政権寄りの立場を取り続けた作家の庇護があった故に、生き残れたのだろう。おそらく、ヴィシーのペタンとルーズヴェルトを結びつけようと渡米した作家は、代償としてヴィシー側に、親友ウェルトと妻の庇護を求めていたのではないか? 妻を米国へ呼び寄せた後、米国で出版した『星の王子さま』の冒頭に、彼は敢えてレオン・ウェルトの名を載せる。その直後、北アフリカへ向かった作家は、ヴィシー政権寄りのジロー将軍とコンタクトを取り、ド・ゴール派の追い落としを画策したが、その裏には単なるド・ゴール嫌いでは説明のつかぬ、複雑な、やむにやまれぬ事情があったはずだ。
コンスエロは『バラの回想』の終章近くで、北アフリカへと出征して行くサン=テグジュペリが、「僕は銃殺される必要があるんだ。自分は洗われたと感じる、この戦争の中で、きれいになったと感じる必要があるんだ[l] 」と語っていたと記す。反ド・ゴールの立場をとっていた作家だが、親ナチ政権ヴィシーに加担していることには、心底納得できずにいたことを物語る言葉だ。米国が参戦し、ドイツの敗色が明らかとなってゆく中、作家の仲間が次々とヴィシー派からド・ゴール派へと鞍替えしていく。ネリー・ド・ボギュエ夫人も素早く英国に渡り、作家に「ド・ゴール派へ転向するように」と忠告する[li] 始末だ。もう、唯「肩をすくめる」しかない作家は、頑迷に反ド・ゴールの立場を取り続ける。この段階になっての転向は、己をド・ゴール派が非難する「日和見主義者」と認めることに他ならない。黙したまま、彼は米連合基地から機首を地中海へ向け飛び続ける。
おそらく米戦略局の情報宣伝部は、高名なフランス作家が米軍機と共に華々しく戦死するドラマを望んでいたのだろう。肩より上に腕が上がらず、一人でつなぎのユニフォームも着られぬ40過ぎの飛行士に、偵察飛行の指令が繰り返し10回も出されたことの裏には、然るべき軍首脳部の計算があったはずだ。そして1944年7月31日、作家は最後のミッションを遂行するため飛び立ち、ドラマを演じきったのだ。
戦後、ヴィシー政権下の対独協力者(コラボ)が次々と断罪される中、サン=テグジュペリが批判にさらされずにすんだのには、『星の王子さま』がユダヤ系のレオン・ウェルトに捧げられ、『戦時の記録U』の題名が『ある人質への手紙』としてウェルトを暗示させていた事が、謂わば免罪符となったためだろう。行方不明となった翌年、フランスの裁判所は作家の死亡を認定し、彼は対独戦の英雄として祭り上げられた。
夫が伝説化されて行く中、コンスエロは回想録を、夫と交わした手紙や思い出の品々と共に、愛用した船旅用のトランクの中に封印した。
註
[i] 新郷啓子 『蜃気楼の共和国? −西サハラ独立の歩み−』現代企画室 1993第1章「歴史に登場しない歴史・ポリサリオ戦線誕生」p36〜44
[ii] サン=テグジュペリ 山崎庸一郎訳 『城砦T』 みすず書房 1985 p.1
[iii] 矢幡洋 『星の王子さまの心理学』 大和書房 2000 p.40
[iv] Hernanndez
Martinez, Maximiliano (1882~1944):
“Historia de El Salvador U”, Ministerio de Educacion, San
Salvador, 1994.
[v] チャールズ・リンドバーグ 新庄哲夫訳 『孤高の鷲 リンドバーグ第二次大戦参戦記』(上) 学研M文庫 2002 P.115
A・スコット・バーグ 広瀬順弘訳 『リンドバーグ−空から来た男』(下)角川文庫 2003 p.162〜164
[vi] Philippe Petain (1856~1951):
『ブリタニカ国際大百科事典 17』TBSブリタニカ 1975
[vii] カーティス・ケート 渋沢彰訳 『空を耕すひと』(下)番町書房 東京 1974 第16章 p.63
[viii] Biographie de Klaus Barbie ://perso.wanadoo.fr/d-d.natanson/barbie.htm
渡辺和行 『ホロコーストのフランス 歴史と記憶』 人文書院 1998
バルビー・クラウス(親衛隊中尉)p.185〜186
[ix] ジョン・フィリップス 山崎庸一郎訳 『永遠の星の王子さま』みすず書房 東京 1994 p.76
尚、www.lepetitprince.net/sub_stex/nnrentre.htmlによると、サン=テグジュペリの飛行回数は、途中で引き返した2回を含め10回目としている。
[x] ステイシー・シフ 檜垣嗣子訳 『サン=テグジュペリの生涯』 新潮社 1997 p.466〜469
[xi] シフ 『サン=テグジュペリの生涯』 p.456
[xii] シフ 『サン=テグジュペリの生涯』 p.459
[xiii] 箱根の「サン=テグジュペリ*星の王子さまミュージアム」の第8 展示ホール:
岩波書店『星の王子さま』の昭和37年の初版の2章、「これが、ぼくがあとになってかきあげた、一ばん上できの、そのぼっちゃんの肖像です」との記述に対する挿画と、2000年3月にオリジナル版としてリメイクして印刷された挿画との比較。
[xiv] “Saint-Exupery” par Pierre Chevrier, nfr. Gallimard 1957 Paris p.23
[xv] シフ 『サン=テグジュペリの生涯』 p.210
[xvi] カーティス・ケート 『空を耕す人』下巻 第22章 p.157
[xvii] シフ 『サン=テグジュペリの生涯』 p.330
[xviii] ケート 下巻 第16章 p.52
[xix] アールグレン,モニアー 『リンドバーグの世紀の犯罪』 第5章 p.85
[xx] ジョイス・ミルトン 『リンドバーグ チャールズとアンの物語』(下) 新潮社 1994 p.5
[xxi] リンドバーグ 『孤高の鷲』下巻 リンドバーグ略年譜
[xxii] デイビッド・J・スタインバーグ 『フィリピンの歴史・文化・社会』
堀芳江他訳 明石書店 東京 2000 :3「単一にして多様な人々:メスティーソ」p.84
[xxiii] スタインバーグ 『フィリピンの歴史・文化・社会』:4「スペイン時代」p.103~109
[xxiv] キニョーネス=メレンデス(Quinonez-Melendez):エル・サルバドールの十四家族である両家は、1913年〜27年に渡り大統領職を親族間で継承し、コーヒー王朝時代を築いた。
Oscar Martines Penate y Maria Elena Sanchez “El Salvador Diccionario; personajes, hechos historicos, geografia e
instituciones”, Editorial Nuevo Enfoque, San Salvador, 2000.
[xxv] 渡辺健夫 『メキシコ革命物語 −英雄パンチョ・ビジャの生涯』 朝日選書 1985 第3章「混血の革命 アメリカ、ビリャ追討軍を送る」p.241~249
[xxvi] ラサロ・カルデナス(1895~1970):
『ラテン・アメリカを知る辞典』大貫良夫他監修 平凡社 東京 1987
[xxvii] 日本アルメニア協会://www.iberiapac.ge/^tbilart/dress/Armenia/index.html
[xxviii] ジョン・リードの『反乱するメキシコ』(筑摩書房 1982)が当時のメキシコの若者たちにインパクトを与え、ジャーナリズムが学生にもてはやされていた。
[xxix] バスコンセロス(Jos’e Vasconcelos) 1881~1959 :『ラテン・アメリカを知る辞典』
[xxx] Paul Webster, “Consuelo De Saint-Exupery:Rose du petit preince” , Editions du Felin (KIRON), 1998. : p41~43
[xxxii] イリゴージェン(Hipolito Yrigoyen 1852~1933):『ラテン・アメリカを知る辞典』
[xxxiii] Consuelo
Sunsin de Saint-Exupery, ”Memorias de
Oppede”
Traduccion:Ricardo Lindo CONCULTURA, San Salvador, 1998.
(仏語初版:“Memoires de Oppede” Ediciones francesas de Brentano’s,
New York,
1945.)
[xxxiv] コンスエロ・スンシン 香川由利子訳 『バラの回想』 文芸春秋 2000
仏語版:Consuelo de Saint-Exupery, “Memoires
de la rose”, Plon, 2000.
西語版:Consuelo de
Saint-Exupery, “ MEMORIAS de la rosa”,
Plon, 2000. Traduccion:Francisco Rodriguez de Lecea y Albertina Rodriguez Martorel
[xxxv] Paul Webster,
“Consuelo De Saint-Exupery:Rose du petit prince” , Editions du Felin (KIRON), 1998.
[xxxvi] ポール・ウェブスター 長島良三訳 『星の王子さまを探して』
角川書店 1996
[xxxvii] Paul Webster,
“Consuelo De Saint-Exupery:Rose du petit prince” , Editions du Felin (KIRON), 1998. :p.11 Preface
[xxxviii] シフ 『サン=テグジュペリの生涯』 p.329
[xxxix] Paul Webster,
“Consuelo De Saint-Exupery:Rose du petit prince”, p.25
[xli] コンスエロ・スンシン 『バラの回想』 第8章 p.226〜229
[xlii] エル・サルバドールの新聞: ‘
Prensa grafica 及び
‘Dirario de hoy’ 2000年6月25日の日曜版
[xliii] 水原冬美 『パリの墓地‐フランス文化の散歩道』 新潮社 1997.2
[xliv] 渡辺和行 『ナチ占領下のフランス』 講談社選書メチエ34 1985
「ド・ゴールと自由フランス」p.198〜199
Georges Mandel (1885~1944)Patriote conservateur anti-nazi parCharles REICH (http://www.sdv.fr/judaisme/perso/gmandel.htm)
[xlv] Marrano:(ユダヤ教から)カトリックへの偽装改宗者・隠れユダヤ
Sefardi:15世紀末にイベリア半島を終われて国外に移り住んだユダヤ人の子孫
参考図書:
小岸昭 『スペインを追われたユダヤ人 マラーノの足跡をたずねて』人文書院 1992
『十字架とダビデの星 隠れユダヤ教徒の500年』日本放送出版協会 1999
『隠れユダヤ教徒とキリシタン』人文書院 2002
[xlvi] Leon Werth, “Saint- Exupery tel que je l’ai connnu…” , Viviane Hamy, 1992.
[xlvii] カーティス・ケイト 『空を耕すひと』 第16章 p.42
[xlix] コンスエロ・ド・サン=テグジュペリ 『バラの回想』 第22章 p.287
[l] コンスエロ・ド・サン=テグジュペリ著『バラの回想』27章 p.331
[li] シフ 『サン=テグジュペリの生涯』 p.459
[1] 新郷啓子 『蜃気楼の共和国? −西サハラ独立の歩み−』現代企画室 1993第1章「歴史に登場しない歴史・ポリサリオ戦線誕生」p36〜44
[1] サン=テグジュペリ 山崎庸一郎訳 『城砦T』 みすず書房 1985 p.1
[1] 矢幡洋 『星の王子さまの心理学』 大和書房 2000 p.40
[1] Hernanndez
Martinez, Maximiliano (1882~1944):
“Historia de El Salvador U”, Ministerio de Educacion, San
Salvador, 1994.
|
1900年6月29日
|
父ジャンは保険会社の調査員としてリヨンに赴任すると、母マリーと結婚して5人の子をなした。アントワーヌは姉弟妹のちょうど真ん中にあたる。 1904年に父ジャンが病没すると、一家は母の大叔母トリコー伯爵夫人のもと、サン=モーリス・ド・レマンス城へ身を寄せる。庭園にモミと菩提樹が鬱蒼としげり、バラが咲き乱れるこの館が、幼いアントワーヌの汲めども尽きぬ詩想の源泉となるのに時間はかからなかった。 昼なお暗い鏡張りの廊下、子供部屋、壊れた古トランクや奇妙な衣裳であふれた屋根裏…。サン=モーリスの館はアントワーヌにとって、どこかに秘宝が隠されているにちがいない魔法の家だった。その記憶は慈愛に満ちた母や家族の記憶と重なり、後年の作品に繰り返しある種のトーンを与えていく。 そんな至福の時代も長くは続かない。 9歳の時アントワーヌはル・マンの聖十字学院に入学する。だが成績もふるわず、彼の自由な想像力は学校教育とはなじめずにいた。そんな多感なアントワーヌを、弟フランソワの死という衝撃的な出来事が襲う。弟の死の記憶はアントワーヌの青春に影を落とし、彼はいっそう瞑想的な雰囲気を身にまとうことになる。 |
|||
|
1919年…
|
青年アントワーヌの心を捉えていたのは、当時まだ珍しかった“飛行機”だった。12歳の時サン=モーリス近郊のアンベリュー飛行場で試乗させてもらった時の興奮を忘れてはいなかったのだ。 |
|||
| 砂漠やアンデス上空を縦横無尽に飛び回り 飛行士兼作家<サン=テックス>誕生 |
||||
|
1926年…
|
ちなみに郵便航空事業の草創期であったこの時代、機体自体もかなり危なっかしいものだった。年間10人は郵便飛行で命を落としていたというから、飛行すなわち“冒険”に等しい。故障や性能不足による墜落や不時着事故も多く、多くの場合は死が待っていた。 だがアントワーヌにとって飛行士とは、人生で初めて出会った「責任をもってやり遂げるべき男の仕事」だった。彼はこの時期、偉大な僚友メルモーズやギヨメと知り合う。勇敢な美丈夫メルモーズや思慮深いギヨメの姿は、アントワーヌに人間として到達しうるひとつの典型を示した。彼らの雄姿は後年『人間の土地』の中で永遠の光彩を放つことになる。 |
|||
|
1927年…
|
27才の時、アントワーヌはサハラ砂漠の中継地キャップ・ジュビー飛行場主任としてモロッコに赴任する。当時砂漠地帯では、郵便飛行機はムーア人の絶え間ない攻撃にさらされていた。彼は不時着した飛行士の困難な救出をたびたび成功させ、その勇気と上品で飾らない人柄はムーア人族長たちやスペイン人兵士の信望を集めた。以後彼は<サン=テックス>と尊敬をこめて呼ばれるようになる。 砂漠での孤独な生活は元来の詩人的気質を深化させるのにも役立った。特に魅了されたのは、砂漠で見る満天の星空の美しさだった。彼は砂漠でカメレオンやガゼルを“飼いならした”が、『星の王子さま』でお馴染みのフェネックキツネを“飼いならす”ことには失敗したようだ。 |
|||
|
1929年…
|
ラテコエール社の後身アエロポスタル社の現地支配人として、アルゼンチンのブエノスアイレスに赴任。また飛行士として活躍するかたわら執筆した『南方郵便機』や『夜間飛行』は多くの読者を獲得し、彼は作家としての名声を確立しつつあった。 そんな折、彼の活動拠点であったアエロポスタル社が消滅。追い打ちをかけるように、敬慕するかつての僚友たちが相次いで消息を絶つ(メルモーズは'36年、ギヨメも'40年の飛行中に行方不明)。 戦争の足音を聞きながら、アントワーヌは深刻な孤独にさいなまれていく。 |
|||
|
1931年…
|
|
|||
|
1939年…
|
|
|||
| 『星の王子さま』を後に遺し 戦う操縦士は地中海に消えた |
||||
|
1943年…
|
しかし、時代はすでに戦争へ向かって大きく走り出していた。第二次世界大戦が勃発すると、アントワーヌは長距離偵察飛行を任務とする33−2部隊への配属を志願。フランスが降伏すると渡米し、対独戦の経験をもとに『戦う操縦士』をニューヨークで発表するが、本国ヴィシー政権により発禁処分とされてしまう。 『星の王子さま』が書かれたのは、こうした状況の中であった。ある出版社がクリスマス向けの子供の本を書いてほしいと依頼したことから書き始められたこの作品は、いつしか童話の枠を大きくはみ出し、比類ない物語へと昇華していった。砂漠での日々、不時着事故、弟の死、“実業屋”や“大人たち”との葛藤、そして何よりも愛と友情の大切さ…。「この一冊の本が生まれるまでには、戦争や無数の個人的問題をふくむ、すべての経験が必要だったのである」。<めんどうみたあいてには、いつまでも責任があるんだ。まもらなけりゃならないんだよ、バラの花との約束をね....> 妻コンスエロを思わせる<バラの花との約束>とは、同時に遠く離れた祖国への責任を意味していたのかもしれない。 その推測を裏付けるかのように、1943年4月に『星の王子さま』が米国で出版された直後、彼は連合軍の指揮下で母国のために戦うため北アフリカに渡る。翌年5月には念願の33−2部隊に復帰し、対独戦の最前線で任務に着いた。 |
|||
|
1944年
|
7月31日、コルシカ島からグルノーブル・アヌシー方面に向けて偵察飛行に飛び立った彼の飛行機は、地中海で消息を絶つ。 その後、機体の残骸や遺品のブレスレットが引き揚げられたとのニュースが何度も話題にのぼったが、その真偽は今もってさだかではない。 |
|||
|
|
||||
| 注:文中の引用は『サン=テグジュペリの生涯』(ステイシー・シフ著・檜垣嗣子訳 新潮社)と『星の王子さま』(サン=テグジュペリ著・内藤濯訳 岩波書店)からとったものです。 | ||||
